家族の紹介 父
私の父は九州出身です
父の父、私のおじいちゃんは双子でおじいちゃんは化粧問屋、そしてもう片方の双子の兄弟は大阪の化粧品会社を営んでいました
わりとを知っている方が多い化粧品メーカーです
そんな商売の家に育った父は、男尊女卑の典型的な家庭環境で、長男として生まれ、蝶よ花よと育てられたらしいです
今では……いえ昔でもあってはいけないことですが、高校生になって出かける時には毎朝決まったお小遣いとタバコを一箱玄関に置かれ、それを持って出かけていたらしいです
実家にいた頃の写真がありますが、私にはよく分かりませんが父親の横にはとても有名な日本のバイクがあります
とにかく欲しいものは何でも買ってもらえたようです
幼い頃に習っていた習字の大会に、お母さんがついてきて墨をすると手が震えてしまうからということで、父親だけ、お母さんが、墨を擦っていたらしいです
私が中学1年生の時、家族全員で九州の父の実家に旅行に行きました
大病をした母は飛行機で残りの親子3人はフェリーで3日かけて実家にたどり着きました
3日間位泊まっていたと思います
その間中 私の父と他の兄弟2人が酷い差別を受けて、食べるところも食べる食事の内容も長男だけ全く違って育てられたということを嫌味半分、冗談半分で聞かされました
今では九州ではそんなことはきっとないんだろうなぁと思います
父は高校を卒業した後、すぐに自衛隊に入ったのかは定かではありませんが、母と出会った20代の後半には、北海道の恵庭の駐屯地に配属になっていました
母と結婚したのは三十歳になる少し前だと思います
その頃京都の宇治の部隊に配属されることが決まっていて母は北海道から離れられることをとても喜んでいたそうですが、父が後輩と共に夜の街でお酒を飲んでいた時、地元のチンピラに絡まれて後輩の罪をかぶって、自分が暴力を振るったと名乗り出て、自衛隊を辞めたそうです
以前の祖母の時に紹介しましたが、祖母は今で言う統合失調症で、母の兄弟は私の父が京都の配属が決まった時には、みんな京都に遊びに行くことができる、ひょっとすると、京都に移り住むことができると期待していたんですが、父が暴力事件を起こしたということで除隊した時には相当ガッカリさせたようです
もちろん一番がっかりしていたのは母だったようです
そこから道南の海沿いの小さな町に引っ越しをするんですが、そこで父が30歳の時長男が生まれます
その長男は出産のとき首にへその緒が巻き付いて仮死状態で生まれたそうです
一言も声を発することなく赤ちゃんは亡くなってしまったそうです
その長男が生まれたのが12月の晦日
もうすでに、火葬場は職員の方が、お正月休みに入っていて、父は職員の方から必要なものを渡されて自分で子供の亡骸を火葬するように言われたそうです
戦後間もない時ってそんなにむごいことが起こっていたんですね
それから2年も経たないうちに私が生まれました
長男が亡くなり、男尊女卑の教育の中で育ってきた父は、大きなあざが顔にあって生まれてきた私を見てガッカリして母に何一つ言葉をかけずに病院を去ったそうです
そんな父ですが、日が経つうちに私の顔のあざも消え、徐々に父親そっくり、ご近所の方から「ハンを押したように全く同じな顔ね」って言われるのが嬉しいのと、私がとても父に懐いていたので私を溺愛し49歳で亡くなるまで休みの日には必ず2人でどこかにドライブするといったようなとても仲のいい父と娘の関係が続きました
とても感謝しています
高校生の時、まだその頃は、住所や電話番号で、クラスの連絡網があった頃ですが私の自宅に連絡網で私の前の順番の男の子から電話がありました
電話を取ったのは父で、男の子から電話が来たということだけで頭に血が上り「明日学校で会うのでしょう だったら明日直接娘に話をしてください」と言って電話を切りました
何度かその男の子から電話が続けてありましたが、最終的にその連絡網の内容は担任の先生が心臓の病気で突然亡くなられたという内容でした
そんなにわたしがモテるわけもなく、とんだ思い込みで連絡網が遅くなり、クラスのみんなに迷惑をかけました
本当に申し訳なく思っております
2歳年下の弟が私にはいますが、後日弟の内容にも触れますが、彼は小学校の半ばまで言葉を発することなく成長しました
父はそんな弟が歯がゆいし、色んな事をそつなくこなしてしまう私の方をより可愛がってしまったので、弟はだんだん父を怖がるようになってしまいました
結局父が亡くなるまで、弟と父はあまり会話をすることがありませんでした
父が38歳の時、母が癌の末期であることが分かり母の手術後、先生にお話を聞く時、小学校2年生の私がなぜか父に同伴し母が余命3ヶ月であることを宣告されました
小学校2年生を軽く考えてはいけません
先生が何をおっしゃって、これから私たちにどんなことが待ち受けているのかぐらいは小学校2年生でもなんとなく雰囲気がわかるんです
弟を連れて親戚が家に帰り、私と父は麻酔から覚めた母に少し声をかけて病院の裏の出口から夜遅くに帰りました
病院の看板がぼんやりと白く浮き上がった中に父の後ろ姿の肩が小刻みに震えているのが分かりました
父は隠し事ができないたちでした
母の余命が3ヶ月と宣告された時は小学校2年のクリスマスのあたりでした
もう残された時間はあまりありません
父は残された時間の中で私達に母との思い出をたくさん作ってあげようと思っていたらしくまだ雪の残る、動物園や遊園地で顔色の悪い母と寒さを堪えて笑っている私達姉弟の写真が今でも山ほどアルバムに残っています
余命の3ヶ月が過ぎても、母は亡くなりませんでした
しかし、道南の小さな町で治療できることは少なく、結局札幌の大きな病院で治療をすることになりました
そう決まった時に父が決断したことは、余命3ヶ月は過ぎたとしても、母の様子を見ていると残された命は短いと判断しました
私が小学校3年生、弟が小学校1年生の時、まるまる1年小学校を休学して祖父母の家で母のそばで毎日見舞いすることで、子供達に、そして母に思い出を残してあげようと思ったようです
弟の担任の先生のお話は全く覚えていませんが、私の担任の先生と父がお話ししたとき、担任の先生は「長い人生の中で1年位学校に行かなくても何の支障もないと思います
お母様のために、そしてお子さん達の為に、お父さまのためにこのご決断は決して間違いではないと思いますよ」とおっしゃってくださいました
日曜日ごとに父は札幌に来てくれました
父にとっても仕事に集中することができて、夜帰ってから子供たちの食事の支度をしなくてもいい、そういう時間が父親に1年間あったことはとても大切な時間だったのではないかと今なら大人の目線で考えることができます
母親は入院と退院を繰り返しながら53歳まで生きてくれました
母と父は11歳年が離れていました
父が49歳で母が38歳でそんなに早く父が亡くなるとは思ってもみませんでした
勝手に母親が亡くなってしまう勝手に作り上げた、お葬式の夢を何度も何度も見ていたのに、その写真が父親の写真にすり替わってしまいました
幼い時から私たちをいつも写真に撮ってくれた父、病気になってからの母との思い出もたくさん写真に残してくれた父、そんな父のお葬式の写真を探しましたが10年ぐらい前の写真しかありませんでした
いつも取ってもらってばかりで父のことを取ってあげようなんて思う人はいなかったんですね
そこら辺が私達も子供だっていうことです
父のお葬式の参列が私の人生初のお葬式の参列でした
こんなに悲しいことが世の中にあるとは考えも及びませんでした
病気が発覚してから半年も経たないうちにあっという間になくなってしまいました
最後には、自発呼吸ができなくなり、明日 人工呼吸器を装着するという時に父が最後に発した言葉は「子供の将来を見ることなく、死んでいくのはどれだけ辛いか」
でした
若くして亡くなった人の無念を目の当たりにした瞬間でした
父が亡くなる時、母もちょうど体調を崩していて、個室で父と母が2人並んで、病室で入院していました
私は高校を卒業していましたが、弟は高校2年生で毎日学校の帰りに病院に寄りました
明日から修学旅行なんだと弟が父に報告した時、もう普通の思考回路にはなっていなくて、自分の財布から弟にお小遣い1000円を渡したのを見た時、思わず廊下に出て泣いてしまいました
弟は今でもその1000円を大切に取っているようです
父は自衛隊を除隊した後、トラックの運転手として働いて、私たちを育ててくれました
お給料は決して悪くなかったようです
私が小学校に入る頃、いつも父にお願いしていました
「二階建ての家を建ててほしい。そして二階に私の部屋を作って欲しい」
父は着実にその計画を進めていたようです
小学校の高学年の時に大事にとって置いた青写真を私に見せてくれたことがあります
「お母ちゃんが病気になっちゃったからね。医療費でお金かかったから家は建てられなくなっちゃったんだ」って言ってました
だから私たち家族はずっと団地で暮らしていました
私ぐらいの年齢になると61歳なんですけど、周りの友人達は皆 親の介護に奮闘中です
その中には私を羨ましいと言ってくる人もいます
年老いた親の介護はどれだけ大変かと切々と訴えてくる人も中にはいます
でも私と弟はもう既に親の介護は10代20代で終わっているんです
親の介護は大変だとおっしゃる方のお気持ちもわかりますですが介護が始まる前まではきっと何十年もの間、嫌なこともあったでしょうが楽しいこともご家族で共有されてきたんじゃないでしょうか?
いちいち言うことはありませんが私は年をとった両親と生きたかったなぁ…とないものねだりで思ってみたりもするものです
遅かれ早かれ親の介護は経験するものなのでしょう
父にはこんな一面もありました
とにかく父は私のことが大好きで、高校受験の時は2日間会社を休んで送り迎えをしてくれました
合格発表の日も会社を休んで一緒に掲示板を見に行ってくれました
そこで記念写真も撮りました
入学した高校は私服でした
入学式ではみんなスーツを着ていて、トレーナーとジーンズで参加したのは私だけでした
父兄からも同級生からもわりと奇異な目で見られましたが、私は気になりませんでした
でも父は入学式、会場に向かう時クラスの数名に「変な子じゃないんだよ お友達になってあげてね」ってお願いしてました
そのおかげでクラスの人からは警戒されて、夏休みになるまで友達ができませんでした
父は自分が平日の休みの日には中学、高校と送り迎えしてくれました
ホームルームの時間も把握していて、先生の話が少し長引くと校門から車を乗り付けて教室の下でクラクションを鳴らしていました
窓から覗くと、サングラスをかけて、黒塗りの車、決して一般の人には見えない風貌です
担任の先生のお話はすぐに終わりました
そんなことが何回もあったので父は私のクラスの人気者でもありました
下校時に迎えに来てくれた時には必ず列車で通学している人を連れてくるように言われました
それは遠くまで私とドライブできるからです
そして車の中で学校での私の様子を友人たちから聞くためです
BGMはカーペンターズでした
今日は長々と父のことについて話してしまいました
父が亡くなって40年以上になります
正直言ってもう父の顔は覚えていません
アルバムで父を見かけると「そうそうこういう感じだった」って思いますが、アルバムももう10年以上見たことはありません